■英霊への鎮魂の心と沖縄への愛着が深まった2日間 ~なにわの塔慰霊祭に帯同して~
去る2月22日(水)から23日(木)にかけて、神道政治連盟大阪府本部主催、
日本会議大阪共催の「沖縄・なにわの塔慰霊祭」があり、小生も沖縄に行ってき
た。参加者は総勢33名。昨年は丁度、3月の東日本大震災直後の沖縄行きであっ
たが、それに引き続いて2回目の開催となった。
天気予報では22、23日と沖縄の天候は曇りから雨ということであったが、沖縄
独特の局地的なスコールの合間を縫った形で、幸いにもよいお天気に恵まれた。
伊丹空港出発の時にはコートなどの防寒が必要であったが、さすがに沖縄は
22~23度あり、少し汗ばむ天候であった。
○2月22日-波上宮参拝、なにわの塔慰霊祭
那覇空港に到着すると、最初に波上宮参拝と古来からの祈りの聖地である崖橋
にある拝所に心から手を合わせた。拝所からは慶良間諸島をしっかりと捉えるこ
とができ、集団自決された島民の人々と最期まで戦い続けた軍人・軍属の人々へ
思いを馳せた。末安宮司からも尖閣防衛や宜野湾市長選で表れた民意がどのよう
なものであったのか、地元ではどう考えられているかについてのお話があった。
また権禰宜の石田君や日本会議沖縄県本部の坂本君も出迎えてくれたことは嬉
しかった。坂本君は週末に坂東忠信先生(元通訳捜査官)の連続セミナーの準備
中ということであった。
その後、糸満市の平和祈念公園内のなにわの塔へ。大阪は各県の慰霊塔が建っ
ている敷地の中でひときわ広く、慰霊祭を斎行するには絶好の場所である。当た
りはクファデーサーの大きな幹の葉が所々枯れているものの、塔や同敷地に合祀
されている南方諸地域戦没者の碑をやさしく抱いていた。
祭壇には大阪から持ち寄った供物を献上、斎主を務めた山根・枚岡神社禰宜の
心を込めた祭詞が響き、糸数・住吉神社宮司による御神楽の時にはそれまで晴れ
ていた天気が微かに霧雨のように降ってきて、すぐに英霊の涙雨であると直感した。
昨年、今年と慰霊祭に参列し、慰霊とは繰り返し続けることであること、塔の
前でここに鎮まれる御霊に触れて慰めるとともに、その志を継承することである
ことを痛感した。
慰霊祭後、スタッフとしてお手伝いをする中で、祭具、テントを片付け、お祭
りを司った祭員の方があとかたづけを済ますために引き続いて仕事をしているこ
ともわかり、このお祭りに向けて心を砕いていることに敬意を表したい思いで一
杯となった。
終了後、那覇市内の「金城」という居酒屋で懇親会を行ったが、ライブなども
あり、たっぷりと沖縄情緒に浸ることができた。その後、宿泊場所のポートホテ
ルへ。
○2月23日-普天間宮参拝、海上自衛隊那覇基地見学、旧海軍司令部跡見学、沖
縄県護国神社自
由参拝
翌日は朝方まで大雨警報がかかわらず、普天間宮に到着した時には嘘のような
爽やかな天気となった。普天間宮は赤瓦で、もう隣は普天間飛行場であるが、同
飛行場は市内の中央の丘に位置し、森が遮断されていることもあり、その動きは
市民からは目にすることができない。この神社は柱の中をくり抜いて鉄柱が挿入
されていて、頑丈そのものの構えだ。参拝後、拝殿の後ろに位置する洞窟は自然
に発生した鍾乳洞で、その奥まった所が拝所となっていて、ここも人々の昔から
の信仰の本拠地である。洞窟内はじめじめとしているが、何か霊気のある感じが
する。
平良禰宜が市長選、基地の問題についてお話をして頂いたが、基地の存在に
よって人々の生活が成り立っていることにも触れ、いかにマスコミが一部のみの
報道をしているのかを実感した。
続いて海上自衛隊那覇基地(第5航空群)を訪問。恥ずかしながら那覇空港と
隣接していることを知った。第5航空群はまさに南の最前線で東シナ海を中心と
する南方地域を防衛する拠点である。広報、幹部の方々との昼食会、基地トップ
の高橋司令の講話と続いた。司令は関西防衛を支える会会長、大阪府神社総代会
の副会長であった高橋季義のご子息であり、父親似で人なつっこく、庶民的雰囲
気のある方であった。その後、整備補給隊の位置する場所に移動、対潜哨戒機P-
3Cが格納してある倉庫を案内された。整備庫も4機程、同時に整備できる位であ
ろうか。テレビや新聞の写真とは異なり、その威容に驚いた。外にも同機4機が
あった。10数機が24時間、常時、ローティションを組んでいる。聞くところで
は、P-3Cは全て米国ボーイング社制の飛行機の改造であるといい、国産は数年後
に配備予定であるという。
我々もまさに稼働中で、一時、休止している同機の内部見学だけでなく、コッ
クピットの運転座席も座らせてもらい、これが最新鋭の哨戒機であることを体感
した。とにかく夥しいボタンの数が並んでいて、これを縦横に操作しているのか
と思うと、本当にすごいと思った。むっとする位の重圧感と、熱気を伴った暑さ
を感じる。
最前線の防衛に従事する人々と飛行機の存在によって東シナ海域は守られてい
るのだ。
そして那覇市と豊見城市の境に位置する旧海軍司令部跡へ。あの大田中将の最
期の電文はここから発せられた。現在は壕の200メートル程を進むことができる
が、全長が約100メートルあり、全て兵士が掘ったものであり、激戦が予想され
る中で準備をする気の遠くなる作業を終え、そして最期まで兵士が立てこもった
場所である。土を掘った兵士、作戦を練った兵士、負傷して、休憩した兵士と、
戦われた人々の息使いが狭い坑道と部屋を巡る中で伝わって来る。その責任感と
ひたすら国の将来と県民のことを思われた司令部とそれを支えた人々がおられた
と思い続けることの重さが身体中を締め付けるようで、思わず苦しくなったが、
壕出口に出て、眼下に海を見ることができる解放感から、ようやく現実に引き戻
される感じがした。
続いて沖縄県護国神社で自由参拝した後、那覇空港から帰路に着き、夜7時35
分に関空に到着した。1泊2日の慰霊の旅行となったが、非常に充実した時間を
過ごすことができた。
沖縄には英霊の方々の思いが一杯、鎮まっており、その英霊の方々に心を寄せ
ていくこと、そして今、御霊の思いが詰まっている沖縄へ侵略を企てる中国に対
して、片時の暇もなく守り続けている人々の努力を目の当たりすることができた
旅となった。
併せて守るべき対象の沖縄との距離感がグッと縮まり、心から沖縄を守るとは
沖縄と本土との固い絆をわが身に宿すことが大切にことを実感したのだった。
次は5月に沖縄県祖国復帰40周年記念大会に参加、準備のお手伝いに、また沖
縄へ来ることとなるが、絶好の前哨戦となった。