■誇りと絆をもって、前に向かって進んでいくことを誓い合った「復興祈念の集い」
~震災後、初めて被災地へ。何もかも押し流され、いまだに震災の爪痕が残る荒浜周辺を巡る~
昨日3月4日(日)の朝、仙台市民会館で開催される「東日本大震災復興祈念の集い」に参加するために、衞藤運営委員長、広中運営委員とともに飛行機で仙台空港へ向かった。
日帰りの強行軍であったが、震災から1年、被災地には1度も足を踏み入れることができず、心苦しかったが、「集い」開会の前の時間で、この機会に是非、被災地の様子がどんな状態であるのかを実際に目にしておきたいこともあり、帯同した次第である。
飛行機の窓から眼下に見える東日本の山々は、真っ白い雪の絨毯が一面に敷かれていることがよくわかり、この冬の積雪がいかに多かったのかがよくわかった。
仙台空港に着き飛行機から出ると、やはり底冷えする風が吹いている。宮城に来たのだと肌身で感じる。既に滑走路は1年前に津波が押し寄せたとは想像すらできず、ここまで復旧するまで膨大な作業があったのではないかとしのばれた。
空港から広中氏が運転するレンタカーで被災地を巡る計画であった。
すぐに空港から海岸側には広大な一面に、雪で覆われ、本当に何もなかった。
お墓の一部が倒れ、もともとあったお寺はない。墓石が半分に割れているものもあった。その隣の神社も本殿だけがポツンとあるだけだ。この神社は津波で拝殿が半壊、昨夏に拝殿を取り壊したという。流されなかったこと自体が驚きだ。本殿に犠牲となられた方々へのご冥福と一日も早い復興をしばし、お祈りをした。ほとんど瓦礫がなくなっているが、部分的に鉄材の瓦礫がうず高く集積されている。
程なく浜の方でも車を止めた。防風林の松林が横殴りに倒されたままになっている。既に色が茶色に変色している松もある。これだけになってしまったのは、多くの松が津波とともに内陸に家屋を削る凶器となったことは容易に察せられる。
次に県道10号線を北上し、この当たりでは最も被害が大きかった荒浜のヘリポート近辺を通過。震災前のここは住宅地であったが、ほとんどの家は基礎の土台があるだけで、あとは何もない。津波がなければ、これから家を新築と勘違いする程だ。ほとんど波が根こそぎ、呑み込んでしまったことを物語っていた。県道沿いに漁船が点在し、こんなところまで打ち上げられ、まさかこんなところになぜあるのか、疑問に思うほど当時の津波の圧力が大きかったことがわかる。完全にこの一体は死んでしまった感を強くした。かろうじて残った家も、一階部分が空洞となっていて、カーテンだけが寒風に揺れながら吹きさらしとなっていて、見るも無残な状態だ。
住宅地帯から田圃が広がっている場所となると、やはり雪で覆われていて、田圃なのかわからい状態となっているが、ヘドロを含んだ海水が入り込み、どす黒くなっており、例年、3月中ごろから小麦の作付けが行われるとのことであったが、見る影もない。しばらくは塩害のため、この田圃を使うことは無理だろう。
仙台市内に入るまで、多くの人々の生命と建物を一のみにし、押し流してしまった自然の脅威は、「猛威」と形容するしかない、人智を超えたものである。しかし、通過する車両や自転車に乗っている人々の表情は、既になにもなかったかのように、生活していることに、この1年の時間の経過を感じたのも事実であった。
東部道路を横切る当たりからは、津波の影響を受けておらず、また倒壊している家屋もない。この道路が高台の役割を果たしており、仙台市内は当時、ライフラインは甚大な影響があったものの、基幹機能は果たしていたことがわかる。それほどの距離でないにもかかわらず、明暗が分かれている。
信じ難い様子を強烈に脳裏に焼き付けながら、昼食後、集いが開催される市民会館に到着した。
1200名の参加者で会場は満杯。女優の東ちづる氏が司会進行をされていたことも、新鮮味があった。参加者全員による鎮魂の祈り、そして震災直後の天皇陛下のお言葉と御製を復興に当たられた人々の表情を映し出すビデオを辿りながら拝聴したが、ここに復興祈念の願いが国民を代表して語り尽くされていることを十分に受け取り、この時この場所で祈念させて頂いたことで、自然と会場が落ちついて、決してあの震災を忘れてはならないという誓いをする厳粛な雰囲気に変わっていった。
政府代表の挨拶、各界からのご挨拶と続いたが、奥井・仙台市長がこれから何回も春を迎えることとなるが、被災地の人々にとっては、もうかつて同じような気持ちでは春を迎えることができなくなったという挨拶は重かった。
追悼講演では作家の曽野綾子氏が「誇りと絆-大震災を乗り越えて」と題してお話しされたが、安心した生活というのは一生のないこと、過去を振り返らずに前を向いていくという生き方が素晴らしいこと、震災によって、勇気ある誠実な人々がいたこと、亡くなった人々の思いに生きるとは死者が何を望んでいるのかを考えることであり、生きている人には健康で満ち足りた生き方をしてほしいと願っているはずであり、残された人々には生きる義務があるとされた。
また一国のリーダーでない私たちには置かれた立場でできることがあること、それは確実に一本の鋲や栓となることであるとされ、何もできない自分達が被災された方々への対し方を教えて頂いたような気がした。最後に、聖フランシスの祈りを紹介され、希望、和解、喜び、光は与えられるより、与えること、愛されるより愛することに価値を置く生き方をしていくことがどんなに崇高であるのかを訴えられた。
参加者の中には、私たちのような被災地から離れている人もいれば、実際に家族を失い、生活の糧となる会社や漁場、学校を失った人々が同じ場に集っているが、皆、心を一つにして過去は過去として、それぞれの場所でできることをしていくことが大切なのだということを、ご教示頂いたような気がした。
被災地からの挨拶として、フィギュアスケート選手の羽生君(東北高校2年)、宮城県漁協唐桑支所の畠山運営委員長が発表されたが、苦労の中にも着実に前向きに生きていこうとする姿があり、こちらの方が勇気を頂いた。
また歌のコーナーも地元のシンガーソングライターや高校音楽家生徒が、自分の体験に基づいた歌を披露して頂き、胸を打った。
復興へ願いを参加者と一体となって確認することしか、前進はないこと、そうして政治はこの声に応えていかねばならないという思いをさらに強くして会場を後にした。
そして午後7時頃、仙台空港から大阪空港に到着したのであった。