■御霊が参列者のまごころと感応し、慰霊祭斎行直後、激しい雨が降る
2月18日から19日にかけて、神政連大阪主催の沖縄なにわの塔慰霊祭があり、小生も参加して来た。神社関係者の方が多かったが、日本会議大阪からも会員が参加して総勢38名に上り、過去最高となった。お祭りを準備するメンバーは前日が入り、4回積み重ねてくると、大がかりなお祭りであっても整然と運営できるところは、さすがにこのお祭りにかける役員メンバーの熱意が伝わってくる。小生もこれで沖縄入りは6回目となった。
それにしても那覇空港に到着するや、初夏のような陽気にはびっくりするものがある。幸いに午前中は雨が降っていたというが、陽が照って快晴であった。
すぐに波上宮で正式参拝、沖縄を守る神々様への挨拶とこのツアーの無事を祈った。祭りの後、大山禰宜が、基地縮小のための8万名署名や名護市長選の動きについてご案内頂き、沖縄県民の本音がどこにあるのかについてお話し頂いたことは、参列者にとっても襟を正されるものだった。
また、参道には梅花と見間違えるような紅色の鮮やかな桜も咲いていて綺麗だった。
その後、摩文仁の平和祈念公園内のなにわの塔での慰霊祭に臨んだ。各県の慰霊塔もそうだが、この塔が建立されたのが昭和40年で来年は50周年という節目を迎える。1年振りに大阪出身の英霊(沖縄戦並びに南方諸地域の戦没者)35000柱の英霊の御霊と相対すことができたのであるが、風もやみ、英霊も見守っておられると思った。
地元からは渡慶次・沖縄県神社庁長、新垣・普天満宮宮司、加治・護国神社宮司代務者、中地・日本会議沖縄県本部会長、久留島・同本部事務局長、坂本・同本部
事務局員も参列して下さり、十分に地元の方々の歓待して頂いているお気持ちがわかった。
斎主の西野・神政連大阪幹事長の祭詞は、当時の世界の動きの中での大東亜戦争の意義が語られ、英霊を顕彰する責任を果たそうとされる丁寧な内容で感動した。
みたまなごめの舞、浪速神楽奉納に続き、参列者の玉串を奉った時点から、にわかに曇って来て、寺井・大阪府神社庁長の挨拶が終わる頃には小雨が降りはじめ、衞藤・神政連大阪本部長の挨拶が終わる頃になると、雨足が激しくなり、「ふるさと」斉唱の時にはお供えを引かなければならない程、激しくなったが、無事にお祭りを斎行することができた。参列者の中には、感極まり、嗚咽しながら歌っている方もおられた。幸い参列者席はテントで設置していたこともあり、濡れることはなかった。
英霊の御霊が参列者のまごころと感応して、それまでこらえていた涙が一斉に溢れたようで、参列者の慰霊の心が通じたのだなあと感じることができ、英霊は喜ばれていると確信した。また、前日に参加者有志で、石畳から園内に通じるヘリの破損部分も修復したということであったが、そのお気持ちが尊い。
その後、那覇市内のホテルに移動、夜の懇親会では地元の新垣・普天満宮宮司、久留島・日本会議沖縄県本部事務局長、坂本・同事務局員にもご参加頂き、沖縄を巡る問題についてもお話を聞ける機会となり、交流を深めることができた。
翌19日は、朝から曇り空で、時折、小雨も降ったものの、沖縄県護国神社を自由参拝、旧海軍司令部壕、嘉数高台公園を巡った。改めて展望台から普天間飛行場を眺望することができたが、2400メートルの程の滑走路には、一見、カニのような形をしたオスプレイの雄姿もあったが、常時15機程のオスプレイが飛行していることがわかった。ここが東アジア、日本の平和を維持しているのであり、どんな世論にも関係なく、中国の脅威から守るために峻厳とした事実であることを目の当たりにできた。
その後、道の駅かでなで嘉手納飛行場を目の当たりにし、その広さに驚いた。昼食をとっているときにオスプレイが飛来している様子もタイミングよく見ることができた。やはり、米軍基地の広さ、規模を目の当たりにする中で、国の守りとは何か、日米安保とは何かを考えることは大切である。
続いて琉球村で沖縄気分に浸った後に、夕方に那覇空港から関空へと戻ってきた。
何回来ても、英霊を顕彰することは継続することであるとともに、その度に懐かしさの情と着実に変わろうとしている最前線としての沖縄を見るのと、多くの英霊が眠っている御霊への慰霊をする責任が自分達に課せられていることを実感した。
今年、沖縄は名護市議選、そして11月には知事選が行われ、基地問題については政府が新たな日米合意に基づいて着々と普天間基地から辺野古沖への移設に当たって、一歩踏み出しているが、それを後押しする戦いはまだ決着はついていない。しかし、基地問題の解決は必ず、英霊の御霊が導いて頂けることを確信するとともに、自分もまた必要とあらば馳せ参じることを決意することができたツアーとなった。