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■今も国を支えた英霊が眠り続ける真田山陸軍墓地~大阪市支部で役員研修会

2013.12.17

 昨日12月16日(月)の午後、日本会議大阪大阪市支部の役員15名で英霊顕彰事業の一貫として天王寺区にある旧真田山陸軍墓地を訪れ、役員研修会を行った。この陸軍墓地は明治4年に設けられたもので、約4600坪の広大な土地に西南戦争以後の戦没者や戦病者、また軍役夫(銃後を支えるために徴収された人々)のお墓が約5300基と大東亜戦争で亡くなられた兵士のご遺骨8200余柱を収める納骨堂がある。
 
 最近になって、産経をはじめとするマスコミによって、ようやく陸軍墓地の存在が広く知られてきたが、敗戦後、国が陸軍墓地の管理を放置し、財務省に委譲、大阪市に無償貸与されていて、維持管理のための資金的バックアップがほんどないこともあり、まだまだ知られていない。ここの墓地は全国で80余りを数える陸軍墓地の中で、最初にして最大の墓地であるにもかかわらずだ。

 日本会議大阪市支部では英霊顕彰事業の一貫として、役員間で研修を積もうと決定し、この日の研修となった。

集会場で説明される吉岡氏

集会場で説明される吉岡氏


 最初に集会場で、真田山陸軍墓地維持会の常務理事の吉岡さんから何故、ここに陸軍墓地があるのか、どの方のご遺骨が眠っているのか、そして現在の墓地の管理状況について、わかりやすい説明があった。明治維新期の陸軍の創設、当時の世界列強の植民地政策の中、わが国も独立するためにはどうしても戦わざる得ない状況があり、大阪にも広大な砲兵工廠が建てられていき、その結果、必然的に国を挙げて亡くなられた兵士をまつる為に墓地を作ったお話はよくわかった。

 吉岡さんは、この墓地の近くに自宅があり、生業のかたわら、文字通り語り部、墓守として、ほとんどボランティアで、請われれば墓地の歴史を紹介し、夥しいほどのお墓に眠っておられる英霊の人生を語り、また納骨堂の扉などが損傷した場合には、自費でペイントなどをしておられるという。76歳ということであるが、本当に頭が下がる思いだ。

西南戦争戦病死者墓碑の前で説明される吉岡氏

西南戦争戦病死者墓碑の前で説明される吉岡氏

 その後、野外に出て、広大な墓地の説明をして下さった。これだけのお墓が立ち並んでいると、墓標と言った方が正しい。明治維新以後ということもあり、長い間の風雪によって、日露戦役までのお墓の中には、すでに頭の部分がとれていたり、石そのものが磨滅してしまって仏様の氏名がわからなくなっているものも多い。

 また野外での説明は冷え込んでいて、肌寒いのに吉岡さんは次々と熱心に説明して下さった。

お墓が向かい合って並んでいる

お墓が向かい合って並んでいる

 印象に残ったことは、西南戦争時に官軍として西南戦争を戦った屯田兵の人々が帰る時に病気で亡くなった人々のお墓が沢山あったこと、村を挙げて村人が墓どうし、向き合って、階級に関係なく死してなお、一緒にいて安らぎを与える構えにしている部分があるとか、日露戦争や満州事変以後、お墓のスペースが狭くなることによって、大きな合葬墓をつくってきたという歴史、「生兵」といって徴兵後、訓練兵でまだ人達のお墓があること、そして大東亜戦争以後は階級が上の者は、遺族の方々が私財を出してつくったために、お墓の規模が違っていること、また第1次世界大戦の時に俘虜となった外国人のお墓もあること、そして日清戦争における軍役夫のお墓が大変多いことなどであった。

 また屋根が波打っているにもかかわらず、かろうじて建っている納骨堂の中も特別に見せてもらった。一つ一つにお名前と住所が記されている骨壺が屋根を支えている柱の中にきれいに置かれている様子には驚いたが、この方々によって今自分達の生があることを改めて実感した。当時は、2日間で、受け取り手のないご遺骨はここに納骨されたということであるが、ご遺族の方々には祖父、父のご遺骨がここにあることを知らない人も多いのだという。

納骨堂におさめられている兵士の骨壺

納骨堂におさめられている兵士の骨壺

 また骨壺の中はご遺骨ではなく、遺髪や生前のお手紙も入っているという。整然として並べられた骨壺を見て、自分達は英霊の方々の思いに応えているのかどうか自問自答せざるを得ず、しばらく言葉を失った。

 国が英霊にこたえていない、陸軍墓地の維持を手厚くほどこしていない、この現状こそ、わが国の精神状況そのものであると感じ、英霊の方々に申し訳ないと痛感した。

 大変、重い研修となったが、役員一同、これにどうしたらよいのか考えめぐらす貴重なひとときとなった。

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