■問われる教育現場-「体罰」の可否なのか、首長と市教委の権限の争いなのか
桜宮高校のバスケ部顧問の体罰によって、それを気にして主将の高2が自殺した事件、事件が起きる前に校長が顧問に聞いたときも「そういうことはない」で一旦は終わったが、事件以後、今度は一転、校長が体罰をした事実を隠蔽、また市教委も積極的に事実究明することをしなかった。
あれよあれよと大きな問題となり、ついには文科省の義家・政務官も市教委に入り、「指導」にはいった。
橋下市長は、「体罰は決して許されない、学校や市教委の対応が完全に間違っている」としたが、顧問の体罰そのものは報道で見聞きする限り、確かに度が過ぎているように感じるが、そもそも体罰そのものが本当に悪いことなのかどうか、俄かに即断することは難しい。
小生が小さい頃はちょっとした体罰はあったが、そこには必ず教師と子供の信頼関係があり、子供が体罰などで精神的に落ち込んだ場合は、必ずといって教師がフォローする体制がとられていた気がする。つい手を上げてしまうのは、児童・生徒にそれによって気力を注入するとか、やる気を奮い起こすために、愛情に裏打ちされたものであった筈だ。そしてかつての子供たちは、そうやって困難、壁を乗り越えてきたものだった。
小生の記憶では今から40年前の小学生時代、田舎の学校で各学年が1学級で30名位の規模で、学校全体であの子の兄弟は誰それとわかっていて家族全体のような雰囲気があった。その中で3年秋に転校してきたが、ある時、友達とハメをはずし、悪ふざけをして担任から廊下でバケツを両手でもって休み時間に立たされることがあり、廊下を歩いている友達に見られて、大変バツが悪い思いをしたことがあった。それ以降は、常にそのことを思い出して、肝に銘じる習性がついた。体罰ではないが、子供達に集団生活の中でのしつけ、礼儀を身につかせるための厳しい指導であったのではないか思っている。
だからこそ一連の学校、市教委の対応とマスコミの報道やについて、後味の悪さを感じるのだ。おそらくバスケ部の顧問にしてみれば、学校の誇りをかけ、全国大会へ出場させること、また運動を通じて過酷な練習に耐える精神力を培う上で、自分の職責を賭けての体罰であったかもしれない。
今日までこの顧問の肉声がないことの方が寧ろ、奇異に感じがある。
橋下市長は、今回の事件は防ぐことのできるものであり、このような体罰を隠蔽したり、モーレツ顧問を擁護したいがために、隠蔽したことに大きな問題であるとした。それ自体、決して間違えではないと思うが、体育科など入試を中止にしたり、普通科の定員を増加したり、受験生に負担を与えたり教師が顧問を外れない限りは人件費を出さないということを市教委に対して強く要望することになると、結局、教育行政について首長と市教委の権限問題に波及することとなり、これは大きな問題に発展する。
問題の本質が、過度な体罰は別にして、体罰そのものに問題があるのか、それともこのように教師を守る市教委と学校にあるのか、交通整理して考えないと、厳しいしつけをしようとする学校現場は混乱するだけなのではあるまいか。多くの人々は、学校現場では教師と児童・生徒、そして保護者の間にこれほどまでに信頼関係がないのかと、溜息をついてしまうことになるのではないか。
毎日の報道にやりきれない思いがする。